室町時代の明応3年(1494)に書かれた伊予旧記に喜光寺という寺名が出てきます。そして、大正12年(1923)刊行の新居郡誌には、喜光寺が地名になって喜光地と呼ぶと書かれています。この寺の名前が喜光地の地名の由来であると思われます。

喜光寺考察

伊予旧記 : 新居丹上郷内宮神護別当、瑞応寺・喜光寺・光明寺・常連寺・正光寺とあり

新居郡誌 : 喜光寺...上泉川分に在り、今は地名となり、喜光地と呼べども、往時喜光寺と云う大寺ありしと云う

西条藩史 : 光明寺・喜光地は廃寺と記載されています。

廃寺となったのは、秀吉の四国攻め(天正の陣 天正13年 1585年)の兵火によるものとも考えられます。

喜光寺は何処にあったのだろうか?
候補1 喜光地豊川稲荷(元歓喜寺)喜光地町1-14-6
候補2 毘沙門堂(上泉町4-21)
候補3 西喜光地老人クラブ(西喜光地町10-16)

ここでは、商店街内の候補1(喜光地豊川稲荷)についての考察を記載します。

1.  図は、内宮神社社伝記からの写しです。(※図はclick/tapで拡大) 当時、内宮神社は宮原の地に在りました。内宮神社の別当寺が北側にあったと言い伝えがあり、旧国道を挟んだ北側(歓喜寺跡地)と考える事もできます。

 

2. 昭和11年に歓喜寺が再建された時、地下3mから3m×2m×1mの巨石が12個。また、歓喜寺裏の小道の拡幅工事の際も前記の石よりやや小ぶりの巨石が12個発見されか。

 

3. 歓喜寺本堂の前には、一年中かれない井戸があった。

 

4. 文献は思い出せないのですが、「喜光寺には大池ありき」と記されたものを読んだことがあります。まるで池のあった跡のように、歓喜寺跡東南から北に向かって、人の背丈以上に土地が一段低く続いているのです。

基固久座 (きこくざ)

大正5年、別子銅山の採鉱本部が旧別子から東平に移ったのと、時を同じくして、喜光地に基固久座が開設され、喜光地の成長期を迎えることとなります。

 

同年、内子座同様の二階建て芝居小屋として開設されました。舞台には花道・廻り舞台も備えられていました。また、活動写真用のスクリーン/映写室もあり、各種興行(人形浄瑠璃、女角力、連鎖劇、浪花節芝居、活動など)が上演されました。

 

お客の送迎飲食物の接待等を勤めるお茶子もおり、表では、人力車が芝居がはねるのを待ち、待機していたそうです。

 

基固久座はやがて、映画館(キコク座)、ボーリング場と姿を変え閉館しました。

 

※基固久座平面図はclick/tapで拡大します。

喜楽亭

木造三階建ての堂々とした建物。喜樂亭も基固久座と同時期に開業。

官公庁の接待にもよく利用され、有名人も数多く飲食、宿泊されていました。元国鉄総裁の十河信二や河東碧梧桐も常連客でした。

※現在、料亭の営業は行っておりません。住居としているため、建物の見学はご遠慮願っています。

 

道しるべ

東西、南北の幹線道路の交差点にあたるため、それらしい道標が立っています。

現在東駐車場に経っているこの道標は元の場所から、10m以内で移動して立てられています。元の場所はもう少し西よりの旧国道沿いに立っていました。

 

書かれている文字を左から記します。

指印 左遍ん...埋もれてる部分をいれると...きっと「指印 左遍ろ道」。
こんぴら大門より15里
土佐国これより三宝山江12里...三宝山信仰があり、そのためのもののようです。
左遍んろ道

喜光地の歴史

明応3年(1494)

室町時代

伊予旧記に喜光寺と言う寺名が見られます。場所は、いくつか候補はあるが定かではないが、この喜光寺が地名の由来だと思います。
江戸時代 喜光地の歴史は別子銅山の歴史に関係しています。元禄15年から明治14年まで別子銅山の物資は泉屋道で輸送されていました。この輸送路と金比羅街道との交差点になっているのが喜光地です。そのため早くから発展し、道沿いに商店や旅館などが立ち並ぶ商店街が構成されてきました。
明治時代 明治に入り金比羅街道(幅1.8m)が国道(幅3.6m)となったことから街はいよいよ栄え、新居浜をしのぐ商店街として発展しました。
大正時代 大正に入って銅山の中心機能が東平に移ったため、ますます賑わってきました。
昭和時代 昭和に入り、東新地方上部の中心商店街としてアーケードも完成し、繁華な賑わう街となりました。昭和48年、別子銅山の閉山があったが、古い町並みの面影を残した地元の商店街として親しまれています。

みち

金比羅街道 江戸時代 江戸時代の往還は金比羅街道であり、北四国唯一の縦街道で、松山、今治方面から喜光地を通り讃岐に至ります。(明治になって改修され国道となりました)
立川道 寛永年間~寛延2年 立川銅山道として新居浜浦まで使用されていました。
第1次泉屋道
第2次泉屋道
元禄4年~元禄15年 住友家が別子銅山を開鉱。運搬路は別子から小箱超えを経由して、宇摩郡天満浦へのコース。仲持輸送で男性45kg、女性30kgの粗銅を担いで運んでいました。
第3次泉屋道 元禄15年~明治13年 西条藩の許可を得て、銅山超えから角石原へ出て、立川を通り新居浜浦に至る別子銅山輸送ルートに変わりました。足谷山~立川中宿は仲持、立川中宿~新居浜口屋までは馬で運搬していました。
牛車道 明治14年~明治26年 別子から銅山越えして立川中宿に至る牛車道が整備され、更に新居浜浦まで延長されて全線開通となりました。牛、牛馬車を利用していました。
下部鉄道

明治26年~昭和48年 端出駅から惣開駅ひまでの物資輸送と一般の人も利用していました。

採鉱石の運搬経路
足谷山~第一通銅~角石原~石ヶ山丈~打除~惣開精錬所

昭和48年~昭和52年 馬車・牛引鉱車・上部鉄道・策道・下部鉄道
閉山後のしばらく運用されていました。